不思議な世界である。海の氷の厚さは2メートルほどもあり、これが完全に海を覆っているので、船は波の影響を全く受けない。氷山は、てっぺんが平らなテーブル状のものが多いが、中にはピラミッド型もある。高さは数十メートルから百メートルほど。広さは町の一区がすっぽり入るくらいある。真夏の太陽に照らし出された氷山の白と、日陰の部分の蒼色の対比は息をのむほど美しく、海の上ということを忘れさせた。
「これが南極か…」時折、氷の割れ目から、ぴょこんとペンギンやアザラシが現れた。愛くるしい彼らの姿は、長い船旅に飽きた私たちの目を楽しませてくれた。しかし、彼らの出現は予測できないので、見逃した隊員は大いに悔しがった。「しらせ」はこれから最後の砕氷航海に入る。氷を砕きながら離艦ポイントまで進むのである。そしてヘリコプターに乗って上陸を果たす。
私は国立高知工業高等専門学校(高知高専)の電気工学科助手。専門はレーザー光を使った金属薄膜物性計測である。それが幸運ないきさつで南極越冬隊員に選ばれ、現在(2000年1月)、昭和基地で暮らしている。
大気中の二酸化炭素やオゾンの濃度を測定したり、大気サンプルの採取をするのが私の主な業務である。自分の専門と直接関係はないが、地球温暖化の原因とされる二酸化炭素の増加や、南極大陸上空に発生するオゾンホール(オゾンの希薄な空間)は世界的な問題である。重要任務に科学者の一人として、随分とやりがいを感じている。
観測隊入りのきっかけは、98年10月、全国の高専のインターネット上の情報交換サイトに「南極観測隊員大気観測要員一名募集」の情報が掲示されたことに始まる。興味がわいたので、資料でももらおうと、募集元の国立極地研究所に電子メールで問い合わせたところ、「パンフレットは無いが、やる気があるなら貴方を隊員にしましょう」という主旨の返事が戻ってきた。あまりにもあっさりした回答に正直、面食らってしまった。誰も引かないくじを引き当てたような感じがしたが、二度とない機会にも思えた。
むろん、厳しい自然に耐えられるだろうか、一年以上も学校を空けて大丈夫だろうかなど、不安にかられた。三日ほど悩んだが、大自然と真っ直ぐ向かい合って暮らすことに憧憬の念もあり、思い切って応募を決断したのだった。
各種訓練や医療検査、精神鑑定を潜り抜けて1999年6月中旬、第41次南極地域観測隊越冬隊員を正式に拝命。最後まで寝起きをともにする越冬隊は全40人だった。帰国は21世紀、2001年3月。そう、幸運にも二世紀にまたがる初の越世紀隊なのである。
199年11月14日、東京・晴海埠頭。「しらせ」は、隊員の家族や友人など大勢の人に見送られながら、出航の汽笛を鳴らした。これから、いったいどんな生活が自分を待っているのだろうか。南極の素顔と隊員の活動を随時報告していきたい。