南極から日本に

現在の南極観測とは

南極観測隊は、初期の探検隊的な要素が弱まり、現在ではオーロラなど南極特有の現象の研究や、定常的な気象、生物観測が主体になっている。また南極は町などがなく人間活動による外乱がきわめて少ないので、電離層や地磁気の観測など精密な観測を行うのにも最適である。

私が携わっていた大気観測は世界各所で行われていて、観測結果を持ち寄り地球全体の大気や物質の流れを解明することが試みられているが、大気は暖かい赤道付近から冷たい南・北極に対流するので、終着地である南極は最も重要な観測地点なのである。

極寒、強風に耐える建物の構造や建築方法、服装、車両の実用試験も重要なテーマだし、太陽光や風力による発電、汚水やごみ処理に関する関心も極めて高い。これらの成果は日本の日常生活にもフィードバックされる知識や技術となる。


41次夏隊と越冬隊全員集合

観測しながらの船旅

2月中旬、我々第41次南極観測越冬隊と同42次夏隊は観測船しらせに乗りこみ日本への帰路についた。観測隊はオーストラリアのシドニーから空路帰国するので、今回は昭和基地からシドニーまでの約5週間の船旅である。途中アムンゼン湾で観測を続けていた42次夏隊の観測グループの撤収作業や、各種海洋観測を行いながら船は進んだ。

時折蜃気楼が現れて、私たちを驚かせた「おい、あんなところに氷山なんかあったか」「よく見ると宙に浮いているよ!」


昭和基地の近くのスカルブスネスの通常の景色。

蜃気楼がでた。島全体が伸び上がって、
海氷のちょっとしたでこぼこが巨大な氷山に見える
翌日の蜃気楼。前日とは異なって見える

底曳き網で海底にいる生物を採取するビームトロールという観測が行われた。42次隊海洋生物の大越隊員は小柄な女性だが、網に掛かって上がってきた生物を目を輝かせながら手際よく仕分けしていった。大きなナマコみたいなのや、ヒトデの仲間に混じって、綺麗なピンク色のエビが上がってきた。「これは美味そうですね」と舌なめずりしながら言う私に、「このあたりのエビは、身の中にワックス成分が多くてお腹を壊しますよ」と笑いながら教えてくれた。うーん残念。

他にもホヤや海綿の仲間や、なんだか分からないこんがらがった紐みたいな生物もいる。「南極域には約600種の底生生物種がいると推定されているけど、まだ300種くらいしか見つかってないし、日本のタコには、足に二列の吸盤があるけど、なぜか南極のタコには一列しかないんですよ」と大越隊員。まだ分からないことばかりなのである。

※ 残念ながら海洋観測の写真を撮り忘れてしまったので、これらの珍しい生物の写真は国立極地研究所 デジタルアーカイブでご覧下さい。

クジラでお別れ

アムンゼン湾はリーセルラルセン山など大きな岩山があり、風光明媚な場所だった。ここでは約35億年前にできた岩石が発見されていて地質学的に貴重な試料が得られている。撤収作業は船を止めてヘリコプターを飛ばして行われた。海洋観測も無く越冬報告書を書いて過ごしていると、突然「クジラが来てるぞ!」艦内通路に大声が響いた。

慌てて甲板に出た。海水面がゆらっと持ちあがると大きなタイヤみたいなものが浮かんで来て、ヘラのような背ビレが現れた。体長6mほどのミンククジラだった。「でかい」そう思った次の瞬間には、もう沈んでいく。さっきより手前の海面が持ちあがると、今度はとがった鼻先が見えた。「ブシュー」と勢いよく潮を吹く。どんどん近づいて、船べりにいる我々の足元までやってきた。「危ない、ぶつかる」、寸前で優雅に身を翻して沖合いに帰っていく。他にも2頭のクジラがいて、かわるがわる何度も何度も寄せてはかえす。曇天で暗い海面を通して見る彼らの舞いは、おおらかで美しかった。まるで猫がじゃれ付いてくるようにしらせに擦り寄ってきた。

撤収最終日、明るい太陽が顔を出した。これで南極大陸を離れることになる。夕食後南極最後の思い出にと多くの隊員が甲板でカメラを構えた。しらせはまばらになった海氷の間を縫うように走る。潮風が心地よい。ひとしきりシャッターを切ったあとは、みんなどこと無く物悲しい表情で次第に遠くなっていく氷の大陸を眺めつづけた。

「ブシュー!」、しらせと並走して一頭のミンククジラが現れた。「あっちだー!」さっきまでのしんみりとした風情はどこへやら、全員がカメラを抱え甲板を走る。げんきんなものである。もちろん私もその一人。こうして我々は氷の大陸を後にした。


繰り返しすり寄ってきた鯨たち。そのゆったりした泳ぎは優雅で美しかった。


みんな南極大陸に名残を惜しんだ。

桜の香り

2001年3月29日、高知に帰ってきた。1999年11月以来、1年5ヶ月ぶりの故郷は花の香りに満ちていた。南極の空気は日本と比べ遥かに澄みきっていて、基地や雪上車を離れると埃はおろか匂いもしない。湿度もきわめて低く、空気の湿りを肌で感じることもなかった。そのような環境で鍛えられたせいか、つぼみを広げようとしている桜はむせ返るほど香り盛っていた。日本の自然はこんなにも元気なんだと叫びたいほど感激し、「ああ、帰ってきたんだ」という思いが身体全体に広がっていった。

こうして私の南極越冬は終わった。まだ観測データの整理や解析などの仕事が残っているが、高知高専に帰り、学生教育主体の生活に戻った。学生達の明るい笑顔を見ながら、彼らにもいつか南極の青空を見てもらいたいと思いながら日々を送っている。

芝治也の南極日記 完結


前回の話 | 番外編へ