一方、観測業務の引継も行われた。42次隊中嶌隊員は、分厚い手引書片手に「こうですか」とこわごわ装置を触る、教える私は「いやそれには書かれてないけど、実はこうやるんですよ」とコツを伝授する。「え、そうなんですか」と手引書の余白にメモを書きこむ。このような共同作業は深夜まで続いた。
各越冬隊長、しらせ艦長の挨拶の後、列が入れ替わった。二つの列は、広場の中央部で交差し、すれ違いながら握手をして声を掛け合った。「一年間ご苦労様でした」、「大変だけど頑張れ」、「ありがとうございました」、「南極生活を楽しんでください」、力強い握手、労わりの心がこもった握手が交わされる。
場所が入れ替わった42次隊員の顔は、満面の笑みで輝く。41次隊は「やり遂げたんだ」というすっきりした笑顔。式典の後は、入り乱れての交歓会となった。ひとしきり騒いだ後は、広場の端にある昭和基地の看板の前で写真撮影。両隊全員が並ぶ、お互いの隊だけで並ぶ、部門別で、同じ出身の者どうしで、と時間の許す限り記念写真の撮影が続いた。
昭和基地母屋の居室を明渡し、一年ぶりに夏期宿舎に入った。個室から合宿所のような暮らしとなったが、周りにいるのは気心の知れた仲間同士。「これも良いな」と車座になって酒を片手に宴が始まる。
42次隊が持ちこんだ日本のテレビ放送ビデオが流れる。番組の内容よりも合間のコマーシャルに「あ、あのタレントがこんなCMに出てる」「ありゃ、この子変わっちゃったよー」と大騒ぎになった。電子メールで日本のヒットチャート情報などは入ってきていたが、曲を聴くのは初めて「こんな曲だったんだ」「なんだこりゃーいろものだよ」とやはりおおはしゃぎ。残った仕事はあるけども、気分的にはくつろいでいる。翌日からの仕事は順調に進んだ。
2月5日がやって来た。私の他に、気象の青山隊員、酒井ドクター、ら数名が一緒にピックアップされる。突然一年以上前に南極入りしたときにもこの顔ぶれだったことを思い出した。私は南極暮らしが性に合い、できる事なら越冬隊暮らしを続けたくて「日本になんか行きたくない」と言い続けてきたが、それももう終りである。
見送りは同じ部門の42次隊員くらいで、退去第一便に比べるとやや寂しい。しかし心のこもった言葉、握手、最後の記念写真を撮影していくうちに、「日本に帰らなきゃいけないんだな」「帰る義務があるんだな」と心が固まった。
退去第一便の見送り。41次、42次両隊のメンバー総出で見送った。
我々を乗せたヘリコプターは、基地のある東オングル島をぐるぐると回ってくれた。ふと隣を見るとオーロラ研究のために来ていた宙空の佐藤隊員が、ぽろぽろと大粒の涙を流していた。フライト前には、自分も泣くだろうなと考えていたが、次々に現れる風景とそれにまつわる思い出をおもいだすうちに昭和基地の芝治也(はるや)という自分が、砂時計の砂の様にさらさらとこぼれ落ちて行って、だだ満足感だけが残ったすっきりした自分に変わっていく感じがした。涙は出なかった。
昭和基地での越冬が終わったのである。
「さらば昭和基地」、心の中でつぶやいた。