冬至祭

転がる太陽と冬の到来

南極昭和基地は、南緯69度の地点にあるため夏は太陽が沈まないが、冬は逆に昇らない。5月下旬、日本は夏だが、南極は季節が逆になるので冬。愛くるしい姿でわれわれ観測隊員を楽しませてくれたペンギンやアザラシはとうにいずこかへ去り、最後に残っていた雪鳥も五月いっぱいで姿を消した。さびしい季節がやってきた。太陽も5月30日を最後に昇らなくなった。次に太陽が昇るのは7月12日だ。この前後には、わずかに登った太陽が地平線をはうように西に移動して沈む「ころがる太陽」と呼ばれる状態となる。隊員達はこれをカメラに収めながら太陽に別れを告げる。

転がる太陽の連続写真。この日は約2時間だけ太陽が顔を出した。

冬至祭

6月下旬、日本は夏至でもこちらは冬至になる。南極では冬至のころは太陽が地平線の下になるため、日の出がない。正午の前後一、二時間が最も明るいが、それでも花火がきれいに見えはじめる程度の薄暮状態だ。気温は零下一五度。二〇度を下回るのも珍しくない。例年8月下旬まで気温は下がりつづける。昭和57年には最低気温零下四五度を記録している。

一日の大半が夜という環境に、隊員の中には朝起きられない、気分が落ち込みがちになるなどの変化が現れる。それを吹き飛ばすために昭和基地では毎年「ミッドウインター祭(冬至祭)」が開催されている。今年は六月二十一日の冬至をはさんで一週間が祭の期間となった。業務の観測活動はもちろん継続するが、期間中、午後から夜更けまで各種催し物で全員が盛り上がる。

冬至祭は南極に点在するの外国の観測基地でも行われており、お祝いや招待状を送り合い交歓している。ただ、わが昭和基地は残念ながら近所に外国の越冬基地が無いため、実際には行き来がない。しかし、お祝いの打電が来るだけでも、他にも極地で頑張っている仲間がいて、この大自然の神秘に近づくために協力し合っていることに感激する。南極はどこの国の所有物でもなく、国境はない。

薄明の下でおおはしゃぎ

わが四十一次越冬隊の冬至祭の主な催し物は、次の通りだった。餅つき、露天風呂、仮装の日、演芸大会、バンド演奏、ヘアカットコンテスト、フランス料理フルコース、大食い大会、基地すごろく、氷上スポーツ大会(サッカー、相撲)、ビリヤード大会、昼食メニュー比べ大会。仕事をするときもすごいが、遊ぶときも真剣そのもの一生懸命やるのである。

大食い大会や氷上スポーツ大会、昼食メニュー比べ大会などは居住棟対抗で得点をつけて競い合った。居住棟は二階建てで二棟ある。それぞれの階は「村」と呼ばれており、村は四村あり、村民は各十名である。

対抗戦の第一弾は「うどん大食い」。うどんは前日にみんなで打った。時間は無制限、全員が食べて杯数を村毎で集計した。 自分の村からは「もう一杯いけ」と激(げき)が飛び、他の村からは「そんなに食べたら身体に悪いからもう止めろ」と野次が飛ぶ。 私はなんとか最初にどんぶり一杯、その後におわん四杯の計五杯を流し込んだ。みんなの平均が四杯強だったから、頑張った方だろう。

おいあと何倍食べればいいんだ?そんなには無理だぜ。
後のスクリーンには丸坊主にされつつある土井隊員が映し出されて笑いを誘っていた。

九人目までの合計で、第一居住棟一階(一居一階村)と私の第二居住棟二階(ニ居二階村)が一杯差で並んだ.最後はお互い切り札の丸山隊員と山下隊員。二人は私がやっと食べた五杯なんて一瞬で過ぎ、おわんがどんどん重なって行く。一堂あ然とするばかり。十分後、我が村の山下隊員は十二杯食べて「これくらいにしとくか」と箸を置いた。対する丸山隊員は十三杯以上食べないと優勝出来なくなった。苦しげに九杯目を食べ、十杯目に手を伸ばしたところで、突然、横から山下隊員が再登場。三杯を十口で食べて追従を振り切った。 結局、山下隊員は一人で十五杯食べたことになる。みんなあきれながらも惜しみない拍手を送った。

同時に別会場では、ヘアカットコンテストが行われていたが、その映像が大食い会場までテレビ中継され、好評をはくした。

露天風呂

期間中、野外には「桧(ひのき)の露天風呂」が登場した。雪上車の暖房機を利用してお湯をわかす仕組みで、機会担当の隊員の苦心作だ。決して広くはないが、やはりわれわれは日本人。お湯にどっぷりと浸かった時の心地よさはなんとも言い難い。ユズが香る湯気越しに、氷の大陸を眺めると、体も心をほぐれた。

湯船でくつろぐ酒井隊員。毎日忙しいお医者様だが今日ばかりはのんびりと過ごす。

「ぎしっ」遠くで海氷がきしむ音がかすかに響く。温かい湯に、火照ったほほをすぎさる冷風、「南極に来てよかった」としみじみ思い、真冬の過酷な活動にもまた立ち向かおうという意欲がわいた。


こうして鋭気を養った隊員は、現在も観測活動に励んでいる。


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